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岩手にゆかり(出身、その他)ある知名の人

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里舘 良一

昭和6年盛岡に生まれる。

知名と言っても、ゆかりと言っても漠然的なもので、一定の基準に従ったわけではない。過去、現在でも広く人々に知られている人は多いが、ここに取り上げた人々は過去の人で、多くは自分が小学6年頃から高校の頃に色々の機会に、色々の人に聞いて記憶に残っている人である。靖国神社第9代宮司南部利昭氏についても南部家が戦争中に東京の戦禍 (空襲) を避けて盛岡に疎開し、南部邸(現在の盛岡市公民館)に仮住まいをしており、南部利昭の兄 (利久) が中学で同学年にいたことから、彼に弟がいることは知っていた。

つまり何のことはない盛岡にあってどっかで多少聞き知った岩手ゆかりの人々について、整理してみたと言うのが正直なところである。配列は生誕年にしたがった。

これらの人々の評価については人それぞれに違うとは思うが、功績、教訓は反面的なことも含め、今の世代にも残っており、生きている。

宮沢賢治はごく短い期間を東京で過ごしてはいるが、その人生を郷里で過ごし、活動したといっても過言ではない。賢治が他の人と違っている点の一つである。

奥州市 (旧岩谷堂、水沢) からは政治家が多く輩出している。通俗的にいえばこの地域は盛岡より早く開けていた。南部氏が三戸(青森県)から移動し、未開の地、盛岡に城を構えたときにはすでに伊達氏 (仙台藩) は奥州市 (岩谷堂、水沢) を行政区域として統括していた。

ここに取り上げた人々うち3割の8人が1880年(明治13年)から1883年(明治16年)の4年間に出生している。高村光太郎は1883年の生まれであるが、岩手に滞在していたのは芸術家として大成してからの数年間であり、この数にいれなかった。及川古志郎は新潟で出生しているが、子供の頃から岩手で生活、成長し、家系も岩手に継続しているのでこれにいれた。なぜ、人材がここに集中しているのかと言うことになるが、偶発的可能性もあろうが、時の社会的背景、社会情勢が影響し、社会が人を育てているのかも知れない。

岩手に関わる政治家としては原敬、齋藤實が暗殺され、東條英機 (本籍が岩手)、板垣征四郎はA級戦犯*で死刑判決を受けた。

* A級戦犯:正しくは極東国際軍事裁判 (東京軍事裁判) によりA級戦争犯罪者として判決を受けた者。極東国際軍事裁判条例カテゴリーA項該当として28名が訴追された。裁判中に2名が病死、1名は精神障害にて、判決は25名についてなされ、7名が死刑 (絞首刑) の判決であった。この裁判の判決を鉱石ラジオで聞いていて “Death by hanging.” なる言葉を知った。


高野 長英

1804年 (文化元年) 仙台藩水沢 (現在の奥州市) 留守家の藩医の出。江戸時代後期の蘭学者(医師)。活動の場は江戸であったが、幕府批判 (幕府の鎖国政策にたいして長英は開国を主張) のかどで捕らわれたが、牢獄の火災 (長英自身の策略ともいわれている) に際して脱獄、顔を薬品で焼いて変形し、再度、江戸に戻ったが発見され、護送中に死亡。


原 敬(たかし)

一般に"はらけい" と言われていることが多い。1856年 (安政3年) 盛岡・本宮に出生。政友会第2代総裁。第19代内閣総理大臣。1921年 (大正10年) 東京駅で中岡良一に襲撃 (刺殺) され即死。現場は丸の内南口で、事件発生現場を示すプレートがある。


田中舘 愛橘(あいきつ)

1856年二戸市に出生。南部藩校で学んだ後、東京へ。物理学者。水沢に緯度観測所 (国立天文観測センター) を誘致。朝日賞、文化勲章受賞。


後藤 新平

1857年 (安政4年) 奥州市に出生。医師、政治家。台湾総督、満鉄初代総裁、拓殖大学長、内務大臣、外務大臣、東京市長。関東大震災後の東京復興 (特に放射状道路とこれに交差する環状道路など) に貢献。ボーイスカウト日本連盟初代総長。

一族には高野長英 (大叔父)、椎名悦三郎 (甥)、鶴見祐輔 (娘婿。政治運動家、評論家、哲学者)、鶴見和子 (孫。社会科学者である鶴見俊輔の姉)、佐野碩 (さのせき。後藤新平は母方の祖父。演出家、作詞家、社会主義運動家)。

後藤新平の死の3日前の言葉と言われているのが 「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ。」 である。


齋藤 實(まこと)

1858年 (安政5年) 水沢 (奥州市) に出生。海軍大臣を歴任。海軍大将。第30代総理大臣。ボーイスカウト日本連盟第2代総長。岡田啓介内閣内務大臣在職の1936年 (昭和11年)、青年将校らが武装蜂起した二・二六事件に際して殺害された。


新渡戸 稲造

1862年 (文久2年) 盛岡に出生。稲造の祖父・傳 (つとう。出自は岩手県花巻)、父・十次郎と兄・七郎は"奥入瀬 (おいらせ) 川"からの疏水である"稲生川 (いなおいがわ)"の掘削を成し遂げ、三本木原 (現在の青森県十和田市) の開発に多大の貢献をした。私財も投じた。十和田市には傳の墓所 (太素塚。太素は傳の号) に接して新渡戸記念館があり、偉業が顕彰されている。なお、傳の亡骸(なきがら)は太素塚から盛岡の久昌寺に改葬され、傳の父の維民(これたみ)、長男の十次郎と並んでいる。

稲造は京都帝大教授、旧制第一高等学校校長、東京帝大教授、東京女子大学初代学長を歴任。次いで国際連盟設立 (1920年) にあたっては事務局次長、太平洋問題調査会の理事長、カナダ・バンフでの太平洋会議では日本側理事長として、世界平和、日米の架け橋たらんと努めた。著書 ・Bushido − The Soul of Japan は有名で、各国語に翻訳。熱心なクエーカー教徒。明仁天皇年少時の家庭教師ヴァイニング夫人 (Elizabeth Gray Vining) もクエーカー教徒。

ローマ字表記についてヘボン式(Hepburn* の提案によるthe Hepburnsystem of romanizing Japanese)にたいして新渡戸稲造は日本式ローマ字を提案した。両式についての議論があったが、内閣告示として日本式ローマ字に準拠した訓令式ローマ字が公に標準とされた(1937年)。しかし、固有名詞、とくに人名、地名などについてこれに準拠していないことが屡々みられる。

*James Curtis Hepburn (1815〜1911. アメリカ人。宣教師、医師。明治学院大学初代総長) は自分から日本人むけにはヘボン(あるいは平文)と名告(なの)っていた。女優のキャサリーン・ヘプバーンも一族。


鹿島 精一

1875年 (明治8年) 盛岡に出生。葛西清寧の長男。鹿島岩蔵の娘の糸子の婿養子となる。

鹿島建設社長。日本土木連合会長、土木学会会長。盛岡を一望する(新庄)岩山に鹿島精一記念展望台がある。


三田 定則(さだのり)

1876年 (明治9年) 盛岡に出生。法医学、血清学。帝国大学医科大学 (現東京大学医学部) を卒業。三田俊次郎先生 (岩手医学専門学校の創立者) の養子となる。東京帝国大学教授 (著書:血清学領域に於ける新知見昭和11年1月27日発行克誠堂書店、ほか)。昭和11年台北帝国大学医学部長、同大学総長を歴任。昭和17年4月に帰郷、岩手医学専門学校第2代校長に就任。岩手医学専門学校の大学昇格に尽力し、昭和22年 (1947年) 岩手医科大学初代学長に就任。

第3代盛岡市長・関定孝 (さだたか)、岩手医大名誉教授・足澤三之介先生 (放射線医学) は三田定則先生の兄弟。


米内 光政

1880年 (明治13年) 盛岡に出生。連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代総理大臣、海軍大臣 (昭和19年〜20年8月終戦の日) を歴任。親英米派。大東亜戦争 (これは当時の日本での呼び方。アメリカでは太平洋戦争。大きく見れば第二次世界大戦) を終結に導いた。

米内光政の話を中学一年の時に聞いたことがある。日本に勝利の見込みのなくなった時期である。話の内容は 「先生の言うことを良く聞いて勉強するように」 といったようなことであった。とても講演といえるようなものではなく、話といえば話ではあるが、簡単にして短く、5分に満たない3分位の短い話であったように思う。衝撃的であったのは、大東亜戦争中の日本の状況を体験されていない方には理解不可能かもしれないが、海軍大臣が将来を担うであろう(?)青少年を前にして"神国日本もなければ、必勝もなし。鬼畜米英もなし。お国のため、天皇陛下のため、戦況報告、国難に対処する心構えなどなく、督戦的戦意高揚的文言が全くなかった"ことである。その後の自分の生活はこの教えに忠実ではなかったが、この言葉とそのときの情景は不思議と頭の隅に残っている。

米内光政の家は経済的に豊かではなく、少年時代には新聞配達などをした。


田子 一民(たご かずたみ)

1881年盛岡に出生。"いちみん"と呼ばれていることが多い。1924年 (大正13年) 衆議院選挙に政友本党公認で立候補。この時、高橋是清 (東京に出生。生後まもなく仙台藩の高橋家の養子となる) が田子と同じ岩手から対立する立憲政友会公認で立候補し、両党、両者は歴史的とも言えるくらい激しく競り合い、結果として高橋是清が当選し、田子が落選した。この選挙の激しさは後日も語り種になった。このことは祖父からも聞いていた。 田子は第34代衆議院議長。

高橋是清は大蔵大臣を数度にわたり歴任。第20代総理大臣。1936年 (昭和11年)、二・二六事件で青年将校達に自宅で殺害された。


金田一 京助

1882年 (明治15年) 盛岡に出生。文化勲章受章。アイヌ文化の研究家。

高校時代に他校で金田一京助の講演があり、この講演を聴いた。容貌と声の調子は記憶にある。多分、今でも声だけ聞いても金田一京助だと分かる様な気がする。講演は "ユーカラ (アイヌの叙事詩)" についてだったと思うが、定かではない。他校とは盛岡二校のことである。この学校は戦後、男女共学となり、当初は極めて少数の男子が在籍していたが、時を経ずして男子の入学希望者が途絶え、現実的には女子校となった。金田一京助の講演は外部にも開放されてはいたが、聴講する男子生徒が少なく居心地が悪かったが、金田一京助の謦咳の一端に接し得たことは悦びであった。

石川啄木の親友であった金田一京助は自分の生活を犠牲にしてまでも啄木を経済的に支えている。この友情は普通では考えられない様な思いやりの深さであるが、令室は非常にご苦労なさった様子。令息の金田一春彦 (国文学者・三省堂国語辞典を編纂) には石川啄木については良い印象が残っていない、というよりは不快な印象しか残っていないようにみえる。金田一春彦は石川啄木について多くを語らない。


野村 胡堂

本名は野村長一 (おさかず)。1882年紫波町の農家に出生。銭形平次捕物帖。中学では上に金田一京助、下に石川啄木。野村胡堂が啄木に俳句、短歌を手ほどいた。"あらえびす"名でレコード評論家としても活躍。

蛇足:橋本ハナとの結婚式にさいして、後に高村光太郎 (後記) と結婚することになる (長沼) 智恵子が介添役をつとめている。


郷古 潔

1882年水沢 (奥州市) に出生。中学は盛岡。1941年 (昭和16年) 三菱重工業の社長に就任。三菱重工業は零式艦上戦闘機・零戦、超弩級戦艦・武蔵を始めとし、陸・海・空全域に及ぶ各種の兵器製造を担う巨大コンツェルンであり、戦後は要職から追放*された。

*公職追放:連合国軍最高総司令部の指令により1946年(昭和21年)に公布された公職追放令により大東亜戦争(太平洋戦争)、軍国主義、全体主義に関連する指導的要職にあった者は戦後公職、要職につくことが不可能となったが、公職追放令は1952年(昭和27年)サンフランシスコ平和条約発効と同時に廃止となった。


及川 古志郎

及川家は東和町土沢の旧家であるが、古志郎の父が新潟県長岡の県立病院院長として勤務していた 1883 年新潟県長岡に出生。小学、中学は盛岡。中学では上に米内光政、野村胡堂、金田一京助、下に板垣征四郎、石川啄木がいた。海軍大将、海軍大臣1940年 (昭和15年)。第2次近衛内閣の時に日独伊三国同盟に同意、軍令部総長、軍事参事官 (1945年5月)。


高村 光太郎

(たかむら こうたろう)。本名は(みつたろう)。1883年(明治16年)東京府下谷区(現在の東京都台東区)に出生。彫刻家(手、十和田湖畔の乙女の像)、画家、詩人(1941年出版の智恵子抄)。智恵子抄には妻智恵子(洋画家)への結婚前から死後にかけての思いが綴られている。1945年(昭和20年)4月の東京空襲にさいしてアトリエが焼失し、知己であった宮澤清六(宮澤賢治の弟)のところ(岩手県花巻町)に身を寄せた。この家も同年8月の空襲で焼失し、高村光太郎は隣接地の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)の小屋に移り、一人で農耕生活を7年。1952年青森県より依頼を受けた十和田湖畔の像を作成のため東京に転居。山口の小屋は高村山荘として保存され、山荘に近接して高村記念館がある。


三船 久蔵

1883年久慈市に出生。講道館入門。十段。中学 (旧制) は一関 --> 仙台。


小野寺 直助

1883年 (明治16年) 前沢町 (奥州市) に出生。京都帝国大学福岡医科大学卒、九州帝国大学第三内科教授、久留米医科大学長、消化器系の疾患についての小野寺圧痛点。文化功労者。

岩手医専の創設者・三田俊次郎先生は臨床系の教授について小野寺直助に相談されたということを聞き及んだことがある。振り返ってみると、その傾向が伺われ二宮教授 (内科)、根本教授 (小児科)、木暮教授 (産婦人科)は九大出身とのことであった。


東條 英機

1884年 (明治17年) 東京市麹町区 (現在の東京都千代田区) に出生。板垣征四郎陸軍大臣の陸軍次官、陸軍航空本部長。陸軍大臣、大東亜戦争開戦時の総理大臣。A級戦犯で死刑判決。

先祖が南部家の能楽師であった関係もあり、本籍は岩手県


板垣 征四郎

1885年 (明治18年) 盛岡に出生。関東軍参謀長、陸軍大臣。東京裁判で満州事変との関係にてA級戦犯、死刑判決。

中学より陸軍幼年学校進学 (中学は2年まで)。米内光政と年齢も近く、交流はあったが、志向は違っていた。


萬 鉄五郎

1885年東和町(花巻市)に出生。画家。


石川 啄木

本名は石川一 (はじめ)。1886年 (明治19年) 現・盛岡市玉山区日戸に出生。 後に渋民に移動。父は住職。

石川啄木は20歳までは郷里にいたが、次の2年を函館で過ごし、次いで東京に移り、東京で他界した。享年26歳。


浅野 七之助

1894年(明治27年)盛岡に出生。書生として原敬の薫陶をうける。1917年(大正6年)に東京毎夕新聞の特派員として渡米。戦争終結の翌年(1946年)にサンフランシスコに創立された日米時事新聞社の初代社長。同社の日米タイムズ (Nichibei Times) は日本語6頁、英語3頁。2006年からは日本語版の日米タイムズ(大判)週3日と英語版の日米タイムズウィークリー(タブロイド判)週1日に分けて発行。2009年9月に廃刊。

浅野七之助は戦後の在米日本人の権利擁護、地位向上のために尽力し、さらに戦後の日本の窮状にたいする救援活動を在米日系人に呼びかけ“日本難民救済会”を設立した。これが後のララ (LARA: Licensed Agencies for Relief in Asia アジア救援公認団体) につながり、1946年(昭和21年)11月30日最初の救援物資(食料、衣類が主体)が横浜新港埠頭に荷揚げされた。ララに対する感謝記念碑が平成13年9月にこの地に建立。ララの活動は1952年までの6年間続いたが、最初の3年間の救援物資の総量は10,000,000トンをこした。救援物資としては脱脂粉乳の量の多さには驚かされた。これが子供の栄養不足を補うために広く全国の小学校に配給された。これがきっかけとなって日本に学校給食が定着し、浅野七之助は学校給食の父と言われている。

1987年(昭和62年)5月16日、浅野七之助の功績が称えられ、サンフランシスコ市長より表彰され、市政令によりこの日を“桑港(サンフランシスコ)の浅野七之助記念日”とした。日本では勲三等瑞宝章。

浅野七之助は永住権をもってはいたが帰化せず、一生を日本人として、盛岡弁で通したとのこと。98歳で他界。


宮澤 賢治

1896年 (明治29年) 花巻市の質屋、古着屋の家に出生。詩人、童話作家、法華教信者。

中学ですでに創作活動、短歌を開始。中学時代から鉱物採集に熱中し、かつ哲学書を愛読。中学卒業後、間をおいて盛岡高等農林専門学校に進学。エスペラントにも関心をもっていた。

宮澤賢治の作品にはほのぼのとした夢があり、心休まるところがあるが、石川啄木の作品には貧困の苦痛、やるせない人生、追い詰められた生活の悲しみを感じさせる。この違いは両者の経済的背景に由来していると思われるが、啄木の作品も初めの頃のものには明るさと夢が感じられる。享年37歳。


椎名 悦三郎

1898年 (明治31年) 奥州市に出生。中学は東京。大学入学時に椎名家に養子に入る。椎名家は後藤新平の姉の婚家であり、かつ蘭学者高野長英(幼名が悦三郎)の血筋。池田勇人内閣で通商産業大臣、外務大臣。

次男・椎名素夫も国会議員 (衆議院議員、参議院議員。2007年他界)。


小沢 佐重喜

1898年奥州市に出生。中学の時に東京に出る。東京市会議員、東京府会議員。1946年 (昭和21年) 戦後最初の衆議院議員総選挙に郷里より立候補し、当選。吉田茂内閣で運輸、逓信、郵政、建設大臣を歴任。民主党の小沢一郎は長男。


鈴木 善幸

1911年山田町の網元に出世。明治出生の最後の総理大臣 (第70代)。長男・鈴木俊一も国会議員・環境大臣を務めた。三女は麻生総理大臣(第92代)の令室。


小牧 正英

本名は菊池栄一。1911年岩谷堂町 (現在の奥州市) の味噌、醤油、酢の醸造販売の家に出生。95歳で他界。バレリーナ。小牧バレエ団の団長。


高橋 圭三

1918年花巻市に出生。1945年から1961年までラジオの時代からテレビの時代にわたってNHKの名司会者として数々のプログラムを担当し、一世を風靡した。NHK年末の最大のプログラム"紅白歌合戦"の司会を連続9回も務めている。NHKを退職後はフリーのアナウンサーとして活躍した。参議院議員を一期務めた。


南部 利昭

1935年東京に出生。南部家 (盛岡藩) 第45代当主。靖国神社第9代宮司。このとき台湾前総統・李登輝が靖国神社参拝。2009年1月他界。